大織冠神社


茨木市には、大化改新〈645〉で活躍した中臣(藤原)鎌足のお墓があるのを知っていますか?

『元亨釈書』の定慧伝には、中臣(藤原)鎌足が摂州阿威山に葬られた後、大和の多武峰に移

葬されたとあります。現在の茨木市西安威一丁目に残される横穴式古墳が、鎌足の墓所と伝承

され、大織冠神社を奉祀しています。

この古墳が鎌足のものであるのか否か?残念なことに、考古学の成果からは否だそうです。

しかし、話をここで終わりにしてはいけません。歴史的な背景に、もう少し目を向けてみましょう。

『日本書紀』を開くと、鎌足は皇極三年〈644〉に神祇伯を固辞し、病と称して三島の地に引きこも

ったという記事が残されています。『藤氏家伝』には、舒明朝のこととして、鎌足が錦冠を固辞して

三島の別業に帰ったとあります。ここにいう三島こそ、高槻市・茨木市一帯を指す古称なのです。

中臣氏の一族が、三島の県(あがた)に在住していたことは、残された神社の祭神や氏族の記録

をたどることで確かめられそうです。お墓を特定することは難しそうですが、中臣氏と伝承との関わ

りを調べてみてはどうでしょう?

でかけてみるなら、JR茨木駅で追手門学院大学行きの阪急バスに乗車します。終点まで行きます

から、乗り過ごすことはありません(笑)。バスを降りて、目の前の道を大学沿いに五分も登れば、

神社に着きます。

少し寂しい所なので、女性が一人で行くことは避けたいところです。

『万葉集』では、巻二に鎌足をめぐるって相聞歌群が残されています。

でかけついでに開いてみてください。

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