梅林寺について U

自分で読んでてちょっとこんがらがってしまったので、『わがまち茨木 神社仏閣編』を参考にしながら前ページの補足と簡単なまとめをしてみました。

大永元年に梅林寺に改宗された後、水害にあって茨木神社の北側に移ったようです。
そして慶安3年(1650)、茨木川の決壊(俗に梅林寺切れ)で堂宇流失し、承応3年(1654)茨木城跡である現在地に移り、文化元年(1804)に現在のお寺が再建されたらしいです。
と、以上が補足とまとめです。

お話によると以前までは、消防署の当たりに昔橋がありそこ当たりから今の茨木神社ぐらいまでまであったという大きなお寺だったのことですよ。

でも現地に行ったことのない人は位置関係が判らないですよね・・・。
とりあえず私が歩いてみた所、梅林寺から消防署まで十数分以上はかかりました。それで何となく感じ取って下さい。

洪水で流されたと言われていたのですが、現在の寺の屋根はとても特徴的で実はとってもお金がかかっているらしいのです…!
屋根を直すだけで億ぐらいいっちゃうらしいです…。私にはとても縁遠い金額ですが、それで百年は保つそうなんです。それを考えると安いのかも?

これがその屋根です。

よく見かけるのはこっちですよね?本を開けて倒してるような感じのやつです。こっちは結構お手軽なお値段で出来るとか。

ですが、そのお寺を建てるのにもお金がかかってきますよね?
そこで必要なのがビッグスポンサー!
そのスポンサーが茨木城の城主だった中川清秀という武将だったらしいんですよ…!
寺宝の所にもちゃんと名前が書かれてありました。
縁起の方に書かれてもありましたよね?赤色の所です・・・!
洪水にあって立て直したはずの現在のお寺の屋根に中川清秀の家紋の「中川柏」がくっきりはっきり入っています。

見えますかね?丸の中にあるんですが・・・。

「中川柏」というのは柏の家紋を使った中では珍しい家紋らしいんです。本にも、

 柏紋の中では三つ柏と抱き柏がもっとも多く、ほとんど八割を占める。三つ柏については、七福神の一として恵比須神がこの紋を用いているので有名。エビスさまは商売繁盛の神さまだが、摂津武庫郡西宮の恵比須神社がこの三つ柏を神紋に用いているからである。

『家紋大図鑑』(秋田書店)


右から三つ柏、抱き柏、中川柏です。
手書きですので、線が曲がってても気にしない気にしない。

と書かれてありました。二割の内に入ってるんじゃ、そんなに知られてないのかなと思っていたら、なんと他に有名な場所にその家紋があるらしいのです。

それが岡城です!
…え?岡城って何?

私もそう思いました。岡城とは荒城の月のモチーフになったお城で有名らしいですよ。
そこに中川家の家紋がそこにもあるとのこと。中川家の縁の人が今でも梅林寺に訪れてその家紋を見に来られるらしいです。


で、岡城はなんで縁があるの?ってことなんですが…。調べてみると岡城の初代藩主は中川家二代目の中川秀成。そりゃ縁もあるわなってことです。この人は大分県にお寺を建てていて、中川清秀が亡くなったのとその合戦で亡くなった人達を弔うために菩提として浄土宋成等山法伯傅院正覚寺というのを建立したとのことです。


正覚寺のホームページを発見したので見てみると、縁起にこのようなことが書いてありました。
(浄土宋成等山法伯傅院正覚寺HP 
http://www.geocities.jp/kzo131/)


・・・岡藩主の中川家の太祖中川清秀の菩提所が摂津茨木の浄土宗梅林寺であったので、岡城初代藩主中川秀成公
(中川家第二代)によって清秀及び賎ヶ岳合戦討死の家臣の菩提を弔うために、建立されたものである。


菩提所としては梅林寺があったので、そうなったとのことですよ。

思い切り話が逸れました…。

前のページの縁起にも書かれてあった通り、寺宝として豊臣秀吉から中川清秀への書簡があるそうです。(『茨木市史』にその書簡のコピーがあるそうですが、ホームページにも掲載されているのを発見しましたので、とりあえず後にリンクさせていただいてます)

あと、お寺の奥には寺宝として中川清秀のお墓もあります。洪水で全て流されてしまったため、現在の墓石の下に中身はないらしく、写真の墓石もその当時に作ったものではなく作り直されたものらしいです。

んが、しかし!
児童公園をつくる為、地面を掘っていたら偶然以前の墓石が出てきたらしいです。文字が書かれている長い石の下にある小さな四角い石の部分です。赤い矢印が指してる所の石です。
写真の通り、現在の墓石の後ろにちょこんと置かれています。


  


というわけで、中川清秀は梅林寺に縁深い人なのです。



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