人物名鑑。

*これは『朝日 日本歴史人物事典』(19941130日発行)から引かせて頂きました*

大体、生まれ別に並べてあります。 
名前にはその人が文中に出ているページをリンクしてます。


 遣唐留学生で唐の朝廷に仕えた文人的官僚。
中務大輔(なかつかさのたいふ)船守の子。入唐後に名を仲満(ちゅうまん)、朝衡(ちょうこう)(晁衡)と改めた。
霊亀2(716)年遣唐留学生に選ばれ、養老1(717)年遣唐使に従い入唐。大学に学び、科挙に合格して、5年左春坊司経局(さしゅんぼうしけいきょく)の校書に任官し、左拾遣、左補闕を歴任。
天平5(733)年帰国を願ったが許されず、秘書監、衛尉卿などを経た。
天平勝宝5(753)年許されて遣唐使一行と帰途についたが、暴風のため安南(ベトナム)に漂着。翌年長安に戻った。
玄宗(げんそう)に仕え、鎮南都護、安南節度使など歴任した。死後、ろ州大都督を贈られたが、肩書きには光禄大夫、北海郡開国公などと記されている。その学識と文才は世に聞こえ、詩人王維(おうい)、李白(りはく)らとも交わった。
「天の原ふりさけ見れば春日になる三笠の山にいでし月かも」は名歌として知られる。『江談抄(ごうだんしょう)』『土佐日記』にも作歌がある。
【安陪晴明 アベノセイメイ】 延喜21(921)〜寛弘2(1005)
 平安時代の陰陽道(おんようどう)の大家、超能力者また占いの神様として神秘的に扱われた人物で『今昔物語』に「古にも恥ぢず、やむごとなかりける者なり」とあるのを初め『古今著聞集(こもんちょもんじゅう)』『宇治拾遺物語』その他にその逸話が語られている。
阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の裔の大膳大夫益材(だいぜんだいぶますき)の子で、賀茂忠行・保憲の親子に陰陽道を学び、保憲より天文道を伝えられた。
保憲は自分の子光栄(みつよし)には暦道を伝え、そののちはこの2家で陰陽道を支配するようになったが、やがて阿倍家が賀茂家を圧倒し、晴明より19世紀の孫有脩(ありなが)の代から土御門とも称するようになった。
9月26日(1005.10.31)没との説もあり、安陪晴明社ではその日を例祭日としている。
【源頼義 ミナモトノヨリヨシ】 永延2(988)〜承保2(1075)
 平安後期の武将。河内源氏の祖頼信の子。没年には異説がある。
一時期、小一条院(こじょういん)(敦明(あつあきら)親王)に仕え、都での生活を送ったが、地方での働きが大きい。
平忠常(ただつね)の乱(1028)では陸奥守兼鎮守府将軍として子義家と共に「俘囚(ふしゅう)」の長安信頼時の反乱を長年月にわたる苦戦のすえ、鎮定し、勇名をとどろかせた。このときの精鋭は父以来のまた自ら相模、武蔵守などを務めた際結びつきを深めた坂東武士たちであった。冷静沈着にして武略に長け、将の器という評や武勇伝は『陸奥話記(むつわき)』に詳しい。
父と共に八世紀中期に菩提寺通法寺(羽曵野市)を開く。国史跡に指定されたその寺跡に墓がある。
 載ってませんでした。
ヤフーに検索をかけても出て来ませんでした・・・。縁起によると森口城の主だったらしい。
【中川清秀 ナカガワキヨヒデ】 天文11(1542)〜天正11.4.20(1583.6.10)
 安土桃山時代の武将。中川重清の子。幼名虎之助、通称は頼兵衛。
はじめ摂津の池田勝正に仕え、元亀3(1572)年8月、摂津高槻城主和田惟雅を討ち取っている。のち織田信長に仕えて荒木村重の配下に入り、摂津茨木城主となるが、天正6(1578)年、村重が信長に反旗をひるがえしたときにはそのまま信長方として残り、同10年3月武田勝頼攻めでも戦功をあげた。
 同6月本能寺の変で信長が殺された直後、豊臣秀吉からの「信長殿は囲みを切り抜けて無事である」という謀書を受け取り、山崎の戦いでは秀吉方先鋒隊の二番に編成され戦功をあげている。
以後、秀吉方武将をして翌11年4月の近江賤ヶ岳の戦には秀吉最前線ともいうべき大岩山(滋賀県余呉町)を守り、柴田勝家方の猛将佐久間盛政に急襲され討ち死にした。
 秀成での記述はなかった。
兄である【秀政 ヒデマサ 永禄12(1569)〜文禄2.10.24(1593.12.16)】の記述を見てみると、兄(秀政)が文禄の役のとき、江原道水原城の戦いの合間に鷹狩りに出かけたところを伏兵に襲われ討死した。陣内巡視中襲撃されたため戦死と報告されたが、虚偽の報告が露見し削封され、弟秀成が跡を継いだ。とあった。

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