はじめに。
これから書いていることは、梅林寺のご住職からのお話を元にして、
私が作って調べたりしていますので口調が伝聞のような形になっております。
読みにくいかもしれませんが、内容上お話を元として作っていますのでご理解下さい。


梅林寺について T


 
さて梅林寺はいつ建てられて、どういう経緯で今に至るのでしょうか?
梅林寺で特別に頂いた縁起(パンフレットのようなもの)を許可を頂いたので、それを紹介してみようと思います。

それとご注意!
梅林寺の縁起は本当はないらしいです・・・!
私が行く前に偶然、私と同じように梅林寺について調べている方がいらしたらしいのです。くわしくは分かりませんが…。それで、その方のために特別に縁起を作ったらしいのです。その残りを私は偶々ご住職に頂き、許可を頂いてページに載させて頂いてます。)
安養寺清秀院梅林寺と号し、浄土宗知恩院の末寺で阿弥陀仏を本尊としておまつりしている。
このお寺のできた頃は安養寺と称して真言宗であったが、大永元年(一五二一)に、眼誉上人が浄土宗に改め、当寺の第一世の開基となり梅林寺と号した。
最初のお寺の位置は字寺町、即ち現在の茨木高校の敷地内の地蔵堂の称する処であったが、水害を受けて眠誉上人が茨木神社の北隣に移した。
第四世是頓上人の時、城主の中川清秀が帰依し、香華の財資を寄附した。
天正一一年(一五八四)秀吉の軍に従軍した清秀が賤ヶ岳で戦死したのを聞き、是頓上人は賤ヶ岳まで行って遺骸を葬り、遺髪を持ち帰って之を寺に納め堂を建てて供養した。
慶安三年(一六五○)の夏に洪水があって梅林寺切れと云われているが、堤防が破れてお寺の建物がすべて流失した。承応三年(一六五四)中興の讃誉上人が後難をさけて、旧茨木城址にお寺を再建した。それが現在の敷地である。現存の本堂は文化元年(一八○四)五月に十八世誠誉上人が再建したものである。
寺宝には中川清秀画像、秀吉書翰がある。
明治四十四年十一月、師団対抗演習があったとき、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)が、見学のために茨木に来られ梅林寺にご一泊された。現在も御座所として保存されている。


 梅林寺は基本的に非公開・・・というか他の参拝自由なお寺とは違い、寺宝を守り語り継ぎ、地元の人達に向け説法を説いたりするらしいのです。なので、・・・入りにくいです。

実際、私も行ったのですが、門は堅く閉ざされ門前で呆然としてました。
(私の場合は、茨木神社の方のご好意で梅林寺の方へお電話して頂き、中に入れました。茨木神社の方、本当に有難うございました。)

そして縁起についてなんですが、『震誉上人筆述』として縁起の起略が一緒に資料として戴けたので、こちらも載させて頂きます。許可はちゃんと得てますよ。


これより大きいのを見たい人は画像をクリックしてください。
赤い色は私が勝手につけました。
理由は後々明らかになります。ふふふ。

内容についてなんですが、梅林寺の方も最初の方は確認が取れないらしく、事実かどうかは分からないらしいのです。後半はについては縁起にもかかれているんで、事実だと思うんですが…ともおっしゃっていました。

茨木市のホームページでは、ここは平安時代に源頼義の祈願所として建てられて真言宗の安養寺とされたとも書かれてありました。

 ですが、縁起では中川清秀という人の名前がよく目につきます。
よく見ると森口城なんてのも書いてますね。
それについては次のページへ。
補足無駄雑学
梅林寺の境内の所には安養寺という看板がありました。

八坂神社の東に「安養寺」という寺があるらしいですが、名前がついたのはこれより随分後っぽいようです。



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