後記







「おい、スガハラ。それでお前は、


どっちの解釈が正しいと思うんだい?






……どこからともなく、


某先生がそう質問を投げかけてくる予感がします。



前にこの発表をしたときも先生はこの点をお尋ねでしたので、ここをスルーするわけにもいきません。



調べても調べても確かな結論など額田王にしかわからないのですから、


彼女がこの歌はこうだと断言した文書でも見つからない限り、


現代人にそれを完全に“正しく解釈”することなど、


できるはずがない、と、私スガハラは思わないこともないのですが……。


























一応、ほんの少しだけ、考えてみましょうか。
























すでにそこに存在してしまっている作品に対して、とやかく言うというのは野暮なこと、


それが恋にまつわるものならなおのこと、とは思うのですが……。


それではこの授業が成り立たないので、一応ですよ一応大事なことだから二度言いました。(←えっ?)



(実はもう少し調べる時間があると思って油断していたので、まだ内容がいい加減なのですが、「こういう希望論もありかな」と思って頂けると幸いです)



























個人的な好みでいうならば、スガハラは、待ち人が来ない前兆である、という解釈のほうが、面白いかなと思います。




にじみ出る悲しみ


あなたはもう来ないということを思いながら、


それでも待ち続けるという、虚しさをはらむ痛み




スガハラはこちらの方が共感できます。


ですからとりあえずこの論を推し進めてみますね。


(スガハラはこのどちらか、あるいはこれ以外の解釈である、という議論に関して、正解はないものと踏んでいますので、ここではとりあえずこの論でいきます)


























さて、この、結局どちらの解釈が正解か、ということを考えるにあたり、少しだけ視野を広げてみましょう。



額田王のお姉さん、という風に一般的には言われている、


通称、鏡王女という女性がいたようです。



額田王が詠んだこの四八八の歌の次には、その鏡王女という女性が、額田王の歌に対して詠んだのではないか

とされている、四八九の歌が万葉集では収められています。



(曖昧表現ばかりして申し訳ありません……。しかし調べれば調べるほど、この辺のことは不確かなのです。


本当に姉なのか、額田王に返した歌なのか、本当に本人が詠んだのか、という)
























風をだに 恋ふるはともし 風をだに


来むとし待たば 何か嘆かむ   (四八九)



「あぁ風。そんなにも秋風を。


風に恋心をふるわせることができるなんて羨ましい。


風を感じて、もしかしたらあの人が来るかもしれないなんて、


あなたはそう待つことが出来るのに、何をそう嘆くことがありましょう」





























額田王には、風が吹いたら恋しく想えるひとがいるのです。


しかし、鏡王女にはいません。


風が吹こうが雨が降ろうが、訪れる待ち人は来ないのです。


だから、風の訪れに恋しい人を想える額田王が、羨ましいというのです。


羨ましがり、その嘆きをなんと贅沢な、と言っているのです。



























いかがでしょうか。



額田王は、待つ人がいることを姉に羨ましがられているのです。



ならば、額田王の歌は、


待ち人が来る、という解釈になるのでしょうか?






来るという意味合いでも、


なんだかほのぼのと幸せそうな雰囲気で、


悪くはないと思いますけどね。



























スガハラの個人的感情で言うならば、


たとえ失恋していようが来てくれる可能性が皆無であろうが、


待つ相手がいるというだけで、幸せだと思うのです。




























理性は、もうあのひとは来ないとわかっている。


でも、それでも、



「来てくれたらいいな」


「信じて待っていればいつかは来てくれるかもしれない」



なんて想いながら過ごすのは、主観的に見て幸せだと思うのです。












客観的に見れば、



「なんと虚しい恋心」


「なんと惨めでつらく哀れなことか」



と思うでしょう。



でも、無いとも言い切れないのです。










そして、そんな虚しくつらい悲しい恋心を、


鏡女王も理解したのであればどうでしょう。



理解したうえで



「あなたには心の待ち人がいるんだからいいじゃない」


「何を嘆くことがあるというの」



と詠んだのだとすれば?












スガハラは、それこそなんと素晴らしい、と賞賛しますね。





額田王の歌の悲痛さが余計に引き立つことに。


その虚しさを理解した上で、嘆くことはない、と言い切る姉に。



額田王の一首だけでなく、


鏡女王の歌とあわせて二首をワンセットの作品として見た時


どれほどこの作品がすばらしいことか。



















仮に額田王の歌が、待ち人が来る幸福な歌だったとすれば、


鏡女王の歌にいったいどんな魅力があるというのでしょう。



妹の幸福を妬んで、唇を尖らせて、忌々しく嫌味を言っているだけじゃないですか。


それはそれで微笑ましい姉妹のやり取りかもしれませんけれど、


芸術としてはそれでは劣るとスガハラは考えます。



もちろん、和歌は決して芸術活動によるものとは限りませんが、


それにしても歌を詠むのに美意識やプライドくらいはあるでしょう。












好きな人を想っていた。するとそこへ秋風が吹いてすだれが動いた。


そんな、それ以上何の意味の無い歌。


それに対し、


風が吹いて恋心がときめくなんて、羨ましい。いったい何を嘆くことがあろうか。



























「額田王が詠んだ歌には意味などなかったのかもしれない」


「しかし鏡女王の歌が、額田王の歌にドラマを植え付けた」



そんなドラマがあるからこそ、これらの歌は万葉集に収録されたのではないでしょうか。




そういうロマンを思うひとがいるから、


あとで解釈をする現代人も、ロマンチストですよね。






















以上、野暮なことではありますが、


既成の作品にあれこれ思うところを好き勝手述べてみました。


拙い内容ではありましたが、


最後まで寝ずに付き合ってくれた方がいましたら、幸いと思います。




平成20年11月 菅原裕香












この資料を作成するにあたり、次のようなサイトから素材をお借りしました。



サイト名:壁紙村


管理人名: koba


http://kabegamimura.net/



サイト名: Went My Way


管理人名: たぼね


http://wmw.x0.com/



サイト名: VAGRANCY


管理人名: 志方あきこ


http://www.vagrancy.jp/




次のような文献も参考にしました。



鴻巣盛廣『萬葉集全釋 第一冊』1935年


福島隆三『額田女王』1983年


木下正俊『萬葉集全注』1986年


伊藤博『萬葉集釋注 二』1996年


身崎壽『額田王-万葉歌人の誕生-』1998年


中西進『女流歌人(額田王・笠郎女・茅上娘子) 人と作品』2005年