歴史 |
社伝によると、
坂上田村麻呂が平安時代初め
大同二年(807年)に、
茨木の里を作ったときにできたそうです。
けれどこれを裏付ける文献は発見できませんでした。
『私本 いばらき風土記』
によれば、
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『私本 いばらき風土記』 1987.1.1 高島好隆 発行所「地名を守る会」茨木支部 より抜粋 |
天石門別神社は、元は別の場所(宮元町)にあったのを、
織田信長さんに焼かれないために、
今の場所へ移動してきたようです。
けれども移動するだけでは安心できずに、
牛頭天王を祭って、織田信長さんの焼き討ちを
逃れた、というのが天石門別神社の歩みのようです。
ちなみに、その場しのぎのような感じで牛頭天王様を
祭ってみたのが、今の茨木神社のようです。
詳細あれこれ。 |
織田さんが神社を焼きたがったわけ。 |
天正の頃、
織田信長は天下統一の手段として
キリスト教の布教につとめました。
キリスト教以外の神様を祭っている
神社などを焼き払うことにしたのです。
けれども
神社仏閣を多数焼却する際に
天照大神、春日大神(天児屋根命)、
八幡大神(誉田別命)および牛頭天王(長の産土神)の諸神を
焼き払うのはさすがにちょっとバチが怖くて
焼き払わなかったのです。
そんな話を聞いた
天石門別神社は社名を隠して牛頭天王社と名乗って
焼却を免れたわけです。
なぜ焼き払うことができなかったか |
牛頭天王については、
牛頭天王は織田信長の生土神(うぶすなのかみ)
生まれた土地を守護する神のことで、
織田信長さんも自分の生まれた土地は大切だった
のかも知れません。