歴史


社伝によると、
坂上田村麻呂が平安時代初め
大同二年(807年)に、
茨木の里を作ったときにできたそうです。

けれどこれを裏付ける文献は発見できませんでした。

『私本 いばらき風土記』
によれば、


『大阪府全志』には創建時代は不詳、
古は宮元町にありしが、
天正年中織田信長耶蘇(やそ)教を信じて
所在の神社仏閣を焼却するに際し、
天照大神、 春日大神、八幡大神及び牛頭天王とせしかば
牛頭天王と偽証し以てその劫火を免れ、
今の処に移転した」とある。

『茨木神社略詩』には、「後水尾天皇元和八年
(1622年徳川三代将軍家光)九月十日に、
社殿を新築して牛頭天王(スサノオノミノコト)を正殿にまつり
天石門別神社は、 本殿の後ろの奥宮に移した」とあります。

茨木神社の社殿の欄干宝珠に
「元和八年」(1622年)と銘があるように、
江戸時代初期に社殿が造営され、
茨木の氏神を奉斎するとともに、
天石門別神社は地主神として、
茨木神社の北側に、別宮または奥宮と称して祀られた。
天石門別神社と天宇受売命(アマノウズメノミコト)を祭神とする

『私本 いばらき風土記』 1987.1.1 高島好隆 
発行所「地名を守る会」茨木支部 より抜粋


天石門別神社は、元は別の場所(宮元町)にあったのを、
織田信長さんに焼かれないために、
今の場所へ移動してきたようです。
けれども移動するだけでは安心できずに、
牛頭天王を祭って、織田信長さんの焼き討ちを
逃れた、というのが天石門別神社の歩みのようです。
ちなみに、その場しのぎのような感じで牛頭天王様を
祭ってみたのが、今の茨木神社のようです。



詳細あれこれ。


織田さんが神社を焼きたがったわけ。


天正の頃、
織田信長は天下統一の手段として
キリスト教の布教につとめました。
キリスト教以外の神様を祭っている
神社などを焼き払うことにしたのです。
けれども
神社仏閣を多数焼却する際に
天照大神、春日大神(天児屋根命)、
八幡大神(誉田別命)および牛頭天王(長の産土神)の諸神を
焼き払うのはさすがにちょっとバチが怖くて
焼き払わなかったのです。
そんな話を聞いた
天石門別神社は社名を隠して牛頭天王社と名乗って
焼却を免れたわけです。

なぜ焼き払うことができなかったか


牛頭天王については、
牛頭天王は織田信長の生土神(うぶすなのかみ)
生まれた土地を守護する神のことで、
織田信長さんも自分の生まれた土地は大切だった
のかも知れません。


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