本日は、大学の入試関連の仕事を手伝ってくれる梅花の学生の皆さんと出会う機会がありました。私のゼミのNさんもその一人でした。どの学生さんたちも役割をよく理解し、真剣に仕事に取り組んでくださいました。
当たり前のことと言ってしまえばそれだけのことのようですが、状況を把握し、それに対してふさわしく行動することは、それほど簡単なことではありません。まして、一所懸命に、にこやかに対応できることは、能力と心延え(こころばえ)がなければできないことです。それができる梅花の学生さんたちを私は素晴らしい女性だと思います。
きっと、その持てる才能とセンスと心をもって、学生生活を充実させてくれることと期待しています。
昨日、梅花高校の生徒さんたちにもそのことを感じました。かわいらしいところのある、力のある生徒さんたちだと思いました。
全員をよく知っているわけではありませんし、同じ人でもコンディションによってはうまくいかないこともあるでしょう。でも、信じて待っていれば、必ず答えてくれる方々だと信じています。
加藤康子さんのブログ
梅花生 2006年06月30日(金)
休講のご連絡 2006年06月29日(木)
私の場合、木曜日の2講は、近代以前日本児童文学講義です。この授業は大学の特別講義の前期分と兼ねてもいます。熱心に聞いていただいているのに、本日大切な連絡を忘れました。今日は、先週終わった『兎大手柄』の関係で、かちかち山絵本をいくつかご紹介して読んでいました。夢中でやっている内に、来週が7月6日であることを忘れていました。
受講生の皆様、申し訳ありませんが、来週の7月6日(木)の2講の近代以前日本児童文学講義は急な出張のため休講です。今後の予定については、7月13日(木)の2講で説明いたします。休講の掲示が、学内の掲示板とホームページの休講連絡に出ていますが、念のため、このブログでもお知らせいたしました。
ご迷惑をお掛けいたしますが、よろしくお願いいたします。
異界への入り口 2006年06月28日(水)
近代以前日本児童文学演習?では御伽草子を扱って、グループ発表をやっています。それぞれの班の発表が、なかなかおもしろいのです。
いくつかの話の中に「異界への入り口」が出てきます。「木幡」「一乗下り松」「戻り橋」などは、人間の現実の世界とは異なる不思議な世界への境界地になっています。
異界は恐ろしいだけでなく、この世の苦しさから解放される夢の世界でもあります。蓬莱、常世、かくれ里、ユートピア、などへの入り口でもあるのです。その入り口は、団子が落ちた穴だったり、転がっていった先の壁の割れ目だったり、山道の先の竹薮だったりします。
何か小さな穴というイメージもあります。茶室のにじり戸、蒸し風呂だった江戸時代の風呂屋の入り口、これらは体をかがめ、潜り込む小さな入り口で、その先に別の世界が開けていたわけです。
先年公開された「マルコヴィッチの穴」(監督: スパイク・ジョーンズ、出演: ジョン・キューザック, キャメロン・ディアス 他、1999年、アメリカ)という不思議な映画の穴を思い出しました。
「王女と小鬼」(「お姫さまとゴブリンの物語」マクドナルド作)のアイリーン姫の階段、「不思議な国のアリス」のウサギを追っかけて落ちた穴も現実から冒険への入り口でした。
私たちの生活の中にも何かの穴、何かの入り口があるのかもしれません。
間をはずす 2006年06月27日(火)
間をはずす、ということは大切なものをつかみ損ねる場合と、かえって相手を引き出す場合があるようです。
ある熱心な落語家の話を生で聞く機会が数回ありました。うまいのです。よく研究していて、志が高いことはよくわかるのです。決して嫌いではありません。気になる存在です。でも、時にこのタイミングと思って身を乗り出したときにほんの少し間がずれるのです。その原因は、口の開き方にあるらしいのです。どうしてその瞬間大きく口を開くのでしょうか。あごが落ちた分だけ間をはずしているような気がします。ずっと開いているわけではないのです。ここぞというときに開くのはなぜなのでしょうか。どうして普通ではいられないのでしょうか。疑問です。
でも、それは何かをねらっての工夫なのかもしれません。間をはずすことで私はその人が気になっているのですから。つまり注意を向けているともいえます。でも、まだ惹きつけられるところまではいっていないと思うのです。もう少し、聞き続けてみます。何か変貌があるかもしれません。
名人志ん生は、晩年黙っているとぐっと客が身を乗り出すといっていたそうです。それは長年かけて飛び抜けた存在になっていたからでしょう。
落語家の皆さんにはとうてい及びませんが、間をはずさないように心がけ、もしはずすなら効果があるようにしたいものだと密かに考えてみましょう。
酒呑童子 2006年06月26日(月)
茨木童子の頭は酒呑童子といわれています。その他に猪熊童子など強そうな鬼がいます。これらの鬼は大江山に住んでいるとのことですが、大江山がどこかということについては二説があるようです。大江山以外に伊吹山の説もあるとのこと。いずれにしても山に住む鬼たちは都の女性を奪い取っていきました。天皇の命令で勇者たちが退治に行きますが、これが大変で、三つの神様の力を得なければ様々な障害を乗り越えられないのです。
一方、酒呑童子側は「鬼神に横道なし」と勇者たちを迎え入れ、酒盛りを開くなど、気の良いところを見せます。これが運の尽きでした。神から授けられた神便鬼毒酒という特別な酒に、鬼は酔いつぶれ、人間は力を得ます。ついには鬼は退治されるのでした。それでも切り落とされた酒呑童子の首は空中を飛び、勇者の首に食いつこうとするのです。
この物語、今の若者はおもしろくないのでしょうか。江戸時代の絵本には、繰り返し繰り返し登場しています。それを見ている内に、私はこの物語がおもしろくてならなくなりました。このおもしろさを現代のそして未来の子どもたちにも味わってもらいたいと思っているのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。
それぞれの民族には、その民族が長年かかって伝えてきた物語があります。それを伝えることに意味があると思います。そのことの意義を伝えたい、伝承はこんなにもおもしろい、という気持ちを伝えようとする新書がこの夏出版されます。新書が完成し、売り出されたらお知らせしたいと思います。
その気持ちの一部を伝えたかったのが、今年度の「近代以前日本児童文学作品研究」です。後期の「近代以前日本児童文学講読」や「日本のあそび」でも伝えたいと考え、計画を練っています。
茨木城 2006年06月25日(日)
大阪茨木城跡で、江戸初期の精巧な欄間(らんま)が出土したことを新聞で読みました。
茨木市のホームページなどによると、現在の茨木小学校一帯が茨木城跡であったと言われ、小学校の正門に櫓門が復元されているそうです。小学校から5分ほど歩いたところに茨木神社があり、神社の東門が、茨木城搦手門を移築したもの、大和郡山市小泉にある慈光院の表門が、茨木城の城門を移築したものだそうです。このように茨木城は、今はその全容を見ることはできず、いつ建てられたのか、どのような造りだったのか、謎の多い城なのです。
茨木城の歴史は古く、南北朝時代に楠木正成が築き、室町時代には茨木氏が代々居城としたのだそうです。戦国時代に入ると荒木村重らに攻められて落城し、中川清秀が城主となりました。最初は織田信長に反旗を翻していた荒木村重と中川清秀は、高槻城主高山右近が信長に投降してから信長の配下となります。本能寺の変後の山崎の合戦では、高山右近、中川清秀は秀吉軍の先鋒として活躍しました。賤ヶ岳合戦で中川清秀は討死し、しばらく茨木城は秀吉が預かり、城主は転々としましたが、関ケ原の合戦後、片桐且元が茨木城主なったのだそうです。
且元は賤ヶ岳七本槍の一人です。七本槍とは、織田信長が本能寺で討たれた後、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いで活躍した、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、片桐旦元、加須屋真雄を指します。且元は大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城としましたが、病没し、後を嗣いだ孝利は大和龍田へ、且元の弟貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となったそうです。
且元は豊臣家の存続に苦心惨憺しますが、淀君らに二心あると疑われ、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」との句を詠みました。この且元の苦衷を劇化したのが坪内逍遥の『桐一葉』です。
七本槍の活躍は、今では歴史好きの人々はよく知っているものの誰もがよく知っているわけではないでしょう。だが、明治時代の児童書には、『日本歴史譚第14編 七本槍』(大和田建樹著、博文館、1899年刊)などがあります。絵双六にも秀吉を扱った作品にはほとんど登場しています。このように誰もが知っていた有名な話だったのでしょう。
こうして多くの人々が知っていた話に関わった茨木城は、その後江戸幕府が「一国一城令」を出したため取り壊されたのだそうです。17世紀の初めのことで、その時欄間や障子や天井板を堀の中に投げ込んだらしいのです。堀の中だったため乾燥から免れ、400年ほどの間良い状態で保存され、今回の発掘で精巧な造りがそのまま出てきたようです。新聞の写真もその状況を伝えています。恐らく城の中心的な建物に使われていた豪華な建具だったろうと専門家は推測しています。
今回の発掘で、目の前に欄間などの建具が現れたことで、茨木城はにわかに現実の物として身近に感じられるようになりました。そこから七本槍の物語も現実と地続きの物語として親しく感じられるようになってきました。
貴重な資料 2006年06月24日(土)
今回は貴重な資料との運命的な出会いの話です。
先日、T氏から梅花女子大学図書館に明治の絵雑誌が寄贈されました。現在整理中ですので、絵雑誌の内容の詳細はまた後日にご紹介することとして、この貴重な資料との出会いをお話ししたいと思います。
5月24日に春季児童文学講演会が行われました。富安陽子先生のお話でしたが、学外からも参加して下さった方々が少なくありませんでした。。その中にTご夫妻がいらっしゃったのです。T氏はこれまでにも児童文学に関心を持たれ、梅花女子大学児童文学科の行事にも関心を寄せて下さっていました。お嬢様も梅花の卒業生でいらっしゃるとのこと。講演会の受付で、かつて児童文学科にお勤めだったI先生についてお尋ねになっているところにちょうど私が通りかかり、少しお話をいたしました。十分お答えできたかどうか不安でしたので、もし何かありましたらと名刺をお渡しいたしました。講演会が終わって澤山記念講堂のフロアを通っていたとき、再びTご夫妻にお会いしました。何かお話がありそうなご様子でしたので、お話を伺うことにしたところ、思いがけなく、代々ご所蔵になっていた貴重な資料のお話でした。
明治期に出版されていた絵雑誌を創刊号から60冊合冊されて、三代にわたってご所蔵されているとのこと。長年にわたって、傷つけないように大変ご苦労され、今日に至っているというお話は、言葉では簡単でも、どれほどの時間と心が注がれたかはかりしれません。貴重な資料を持ち続けることは大変なことだと実感します。
その貴重な資料を託すところを探しておられるとのこと。いろいろと考え、当たられた結果、梅花に託したいとのお話でした。その後、各部署で検討の結果、図書館でお受けすることになりました。
その資料と梅花の運命的な出会いだったと思います。T氏が梅花と交流があったからこそ、この出会いが生じたのでしょう。T氏の思いを受け止め、大切に資料を守っていかなければならないと思いました。そして、この資料の価値を理解し、役立てていくことも重要なことと思います。
「一期一会(いちごいちえ)」という言葉があります。今の出会いは、いつもあることではない、もう二度とないかもしれない。このことは、人と人の出会いでも、資料との出会いでもいえることでしょう。
1+1=? 2006年06月23日(金)
今年度の前期は、高大連携で梅花高校で授業をさせていただいています。週に一度、45分授業を続けて二つやります。「児童文学の楽しみ」というテーマで、私は近代以前日本児童文学の分野を踏まえながら、江戸時代の子どもの楽しみに体験を通して触れてもらっています。古いものだけでは高校生には親しみが湧かないので、現代と過去を結ぶ仕掛けが必要になります。その工夫を生徒さんたちの様子を見ながらしています。
先週と今週は「絵すごろく」を取り上げました。この授業で私は受講している高校生の皆さんに大変感心しました。
先週は3グループに分かれて江戸時代の絵すごろくで遊んでもらったのです。一つのグループは8、9人。普段一緒の友だちとはいえ、また遊びとはいえ、あんなに楽しく仲良く遊んでくれるとは思いませんでした。ルールもあり、順番も待たなくてはなりません。わかりにくいところもあります。でも、実に楽しそうに盛り上がって遊んでくれたのです。全員が楽しく遊び、雰囲気を盛り上げて、その絶好調でぴたっと終える、なんてことは、簡単なようで決して簡単ではないと私は思うのです。それを3グループ共、にぎやかに笑い合い、全員が上りに達し、クラス全体がわっとまとまって、終わる。しかもさっと後片づけをして、授業のまとめの感想を一斉にしっかり書く。これは見事としか言いようがありません。このクラスのメンバーの能力、性格のよさをしみじみと感じました。
今週は絵すごろくをグループで作ってもらいました。作り方の説明が十分とは言えないのに、見本に持っていった作品を見、用意していった材料を見、すぐに作業が始まりました。ここでも感心したのは、うまく話し合いをしているのです。あるグループはくまのプーさんの場面を集めています。どの場面をどのように描くのか、皆で話し合っているのです。これが楽しそう。後で書いてもらった感想でも、話し合いが楽しく、もっと念入りに考えたかったとあります。別のグループは分担をした後の、描き込みの作業が実に丁寧なのです。互いに見せ合いアイディアを出し合ってみるみる絵ができていきます。どのグループも生き生きとして、仲良くグループ活動をしているのです。しかもできつつある作品は、できあがりがとても楽しみなものばかりです。
何かの目的に向かって作業をするとき、話し合いというものは時に面倒くさかったり、うまくいかなかったりするものです。でも、互いの良さを認め合って助け合えば、確実に1+1=2よりも大きな3、4、5……が結果に出てくるはずなのです。私は、このことを高校生の人たちに眼前で教えてもらいました。
絵本 2006年06月22日(木)
絵本の世界が豊かになっています。地域の図書館に行っても国内のさまざまな絵本がたくさん揃えられているばかりか、外国の絵本もずいぶんあります。絵本が子どもにも大人にも愛される時代です。
日本の絵本の歴史はずいぶん長く、それぞれの時代に絵と文章から成り立つ絵本がありました。絵だけの作品もありますが、絵と文字がどのように絡まり合うか、絵本の魅力の一つはそこにあります。また、文章だけでは伝えられないものが、絵によって魅力を増すこともあります。
近代以前の絵本については、私も自分の課題として扱ってきましたが、まだまだ、まだまだ、考えること、調べることがたくさんあります。その近代以前と近代以降の過渡期も興味が尽きない時代です。さらに、近代以降の時代にも、現代の絵本とは違った魅力があったりします。そのようなさまざまな絵本の魅力を探っていくのも児童文学科の分野ですね。
書棚を見ていたら、以前買っておいた絵本を見付けました。『トッパンのえほん さるとくらげ さざなみ童話集4』(安泰・え、株式会社トッパン、昭和29年刊)。古典に出てくる話に関わる近現代の絵本は気が付いたときに見るようにしているのですが、これもそれで買っておいたものでした。
この絵本の特徴は絵にあるのではないかと思います。どこか洒落た雰囲気の画法と暖かみがあるのです。安泰氏という画家の持っている特徴らしいのです。「絵本、むかしも、いまも…」というサイトで、徳間書店の「子どもの本だより」(2000年11月/12月 第7巻 40号)の竹迫祐子氏の解説を紹介しています。その中で、安泰氏は「素朴で誠実なリアリズム」を持つ画家として紹介されています。
昔話として知られる話を一つの別世界に仕立てたのはこの絵のお陰のような気がします。絵本は絵と文の総合芸術ですが、絵の持つ力は少なくありません。この絵本は、絵によって読者の心をつかんでいるように思います。安泰氏という画家に注目していきたいと思っています。
弟 2006年06月21日(水)
私には弟が二人います。一人は早産でわずかな時間しか生きられませんでした。私は二歳ぐらいだったでしょうか。ほとんど記憶はないのに、父に抱かれて保育器の中の赤ん坊を見ているイメージが残っています。天に召された弟は昇(のぼる)と名付けられました。その法事がこの夏にあります。
弟が亡くなった後、しばらくしてもう一人の弟が生まれました。この間のことは、あまりよくわかりませんが、母や父がどのような思いでいたのか、今になってみるとその気持ちをいろいろに想像することができます。半世紀経って法事をしようとする年を取った二人の気持ちをどのように表現したらよいかよくわかりません。母はずっと以前、その後に子どもが生まれても、いつまで経っても一人足りないと言っていました。
下の弟は元気に育ちました。かわいいけどちょっと頑固でした。私のお下がりの赤い長靴を履いて、私の後を付いてきました。気持ちは私より優しいのです。ある時、母の実家に遊びに行くと、白いスピッツがいました。顔をすりつけて仲良くなり、長い廊下を弟とスピッツは駆けずりまわって遊んでいました。弟が小学校一年生の時、ずいぶん離れて妹が生まれました。弟は嬉しかったのでしょう。友達を引き連れて帰ってきて、威張って妹を見せていました。
その弟が高校の時か、絵本を買っていたらしいのです。私は知りませんでしたが、後に妹が教えてくれました。どういういきさつか、それが今私の家にあります。息子がもらってきたのでしょうか。『ねずみくんのチョッキ』(作・なかえよしを、絵・上野紀子、ポプラ社、昭和49年初版・昭和55年28刷)です。これは、だいぶ読みましたので、年季が入ってぼろぼろです。私もこれは好きでした。
お母さんが編んでくれたぴったりの赤いねずみくんのチョッキは、アヒルに貸し、猿に貸し、アザラシに貸し、ライオンに貸し、馬に貸し、象に貸しているうちに、どんどん伸びてしまいました。同じ言葉が繰り返されていきますが、そのつど動物たちの表情は微妙に変化しています。伸びきったチョッキを引きずってしょんぼり帰るねずみくんの姿で終わっていますが、奥付の上に小さな絵が描かれています。伸びたチョッキを象の鼻にかけねずみくんはチョッキでブランコ遊びをしています。
文章のリズム感と絵の変化を楽しみながら次第にクライマックスへ向かってせり上がり、最後はふっと力が抜けて心が暖まる、そのような構成が読者を惹きつけます。簡潔な絵も読者の気持ちを一つに集中させる効果があるのでしょう。以前、小学生のグループに対して授業をしたときに、この絵本を持っていって音読することにしました。一人のやんちゃな男の子が、「読んでくれるの」と嬉しそうでした。大人と子どもが絵本を挟んで音読を楽しむことのできる作品です。それと共に、高校生の男の子が一人でくすくす笑いながら楽しめる作品でもあるところが、この絵本の魅力の深さかもしれません。


